
先日、阿部賢一先生が読売文学賞を受賞され、その授賞式に参加してきた。
チェコのパラツキー大学で日本語と日本文化を専攻していた頃、大岡昇平や三島由紀夫、安部公房、村上龍など、日本を代表する作家たちの作品に親しんでいた。当時、そうした作家の略歴にはよく「読売文学賞受賞」の文字があり、文学賞を受ける作家というのは特別な存在なのだろうと漠然と思っていた。ただ、その頃の僕にとって日本は遠すぎて、将来本当に日本語を使った仕事ができるのか、不安で仕方なかった。ましてや、こんなに身近な方が文学賞を受賞し、その授賞式に自分が参加する日が来るとは想像もしていなかった。
2017年にチェコセンターで働き始めて以来、チェコ文学についてはずっと阿部先生を頼りにしてきた。その先生が読売文学賞を受賞されたと知った時は、とても嬉しかった。先生はカレル・チャペックのような古典から現代の作家、そして文学理論まで幅広く取り組んでいて、そのスピードと情熱にはいつも驚かされている。
授賞式当日、阿部先生が壇上で『翻訳とパラテクスト: ユングマン、アイスネル、クンデラ』について語り始めると、会場の誰もがその話に聞き入っていた。その瞬間、参加者の視線は一斉に壇上の先生に集まり、文学賞のおかげでチェコ文学が日本でスポットライトを浴びている特別な空気を感じた。同時に、この光景を見ながら、文学自体が注目されにくくなっている現状とのギャップについても考えさせられた。

最近では、映画や文学の賞に対して「本当に意味があるのか?」という問いかけがなされている。映画の場合、アカデミー賞授賞式の視聴者数はピーク時の3分の1近くまで落ち込み*、人々はハリウッドの審査員の評価よりも、ストリーミングサービスのアルゴリズムが勧める作品に耳を傾けるようになっている。
文学はさらに深刻で、そもそも本というメディア自体が絶滅危惧種のようになりつつある。日本の書店数もここ20年で約3割減り、市場規模も縮小している。文学イベントの企画に携わっている者として、毎日のように厳しい数字や悲観的なグラフを目にし、「若者の読書離れ」「本が売れない」「書店が減っている」といった暗いニュースばかり聞かされる。
原因はいろいろあると思うが、個人的には一番の原因は「情報量の津波」のようなものだと感じている。SNSやテレビ、ネットニュースから毎日大量の情報が押し寄せ、何を選ぶべきか分からなくなってしまう。そんな中でじっくり時間をかけて本を読むのは、多くの人にとって難しくなっている。
こうした状況を考えても、僕はやはり文学賞には価値があると信じている。文学賞はこの情報の渦の中で、「どの作品を選べばいいか」を示すヒントになる。文学賞を通じて、個人が素晴らしい作品に出会えるだけでなく、社会全体が同じ作品を語り合う機会が生まれる。例えば、『コンビニ人間』や『推し、燃ゆ』といった文学賞受賞作が社会的な議論を呼び、多様な意見を交わすきっかけとなった。文学は人と人をつなぎ、孤立しがちな社会に新しい対話を生む。
また文学賞にはもう一つ重要な役割がある。それは文学に人生をかけてきた人たちへの敬意を示すことだ。文学賞を通じて社会が文学の価値を認め、人間にとって必要なものだと伝えることができる。文学賞がこれからも良い作品を照らし、人々に新しい気づきや対話をもたらす限り、僕はその価値を信じ続けたい。

阿部先生、改めておめでとうございます!
*ピーク時(1998年)の約5500万人から2024年には1950万人まで激減