
私は日本国内旅行が好きで、よく旅に出たりします。もし旅先の町を散歩しながら、赤煉瓦の建物を見かけたら、懐かしい気持ちになり、遠いチェコにある赤煉瓦の町、ズリーンに思いを馳せます。
東モラヴィアに位置している私の故郷であるズリーン市はプラハ、チェスキークルムロフ、オロモウツなどと比較すればまだまだ日本での認知度が低いでしょう。チェコと言えば、真っ先にズリーンを思いつく人は殆どいないと思います。
しかし、チェコを訪れる人にやはりもっと足を伸ばして、ズリーンまでに行ってほしいです。きっと後悔しないと思います。ズリーンはチェコの東故郷近く、首都から遠いが、ただの田舎町ではありません。歴史的にも、現在の形でも非常に面白くて、チェコ国内で類がない町でしょう。
人口は7万5千人で、ズリーン市はズリーン地方の首都の役割を担っています。社会主義の時代、町の名前がチェコスロヴァキア共産党を率いていたゴットワルト大統領に合わせ、ズリーンからゴットワルドフに改名されたが、ビロード革命後、もとのズリーンに戻りました。民族的に言えば、三つの地方、ハナーツコ地方、スロヴァーツコ地方、ヴァラキア地方の間にあるズリーンはそれぞれの地方の文化が漂いながら、20世紀の前半に全国からズリーンの工場で働くために引っ越してきた人々のおかげで、普遍的で、コスモポリタンの雰囲気があります。
ズリーンは丘に囲まれた谷にあり、町を東から西へドジェフニツェ川が流れています。ズリーンは谷に位置しているおかげで悪天候から守られています。また、町の大きな魅力の一つは自然がとても近いということだと思います。ズリーンの中心から散歩で森に行けるし、簡単なハイキングも気軽にできます。
町の歴史を見てみると、19世紀末までズリーンはそれほど重要性がなかったが、1894年にズリーンの運命を大きく影響した人物が町に引っ越してきました。後ほど「靴の王」と呼ばれるようになったトマーシュ・バチャ (1876年-1932年)とその兄弟でした 。彼らはズリーンで靴屋を始め、最初の小さなお店を成功させ、どんどんビジネスを拡大し、工場まで建てました。トマーシュは1932年に飛行機墜落事故で亡くなってから、腹違いの弟ヤン・アントニーン=バチャ(1898年-1965年)が社長となります。バチャ社で働くために全国から人々がズリーンに集まり、バチャ社での就職チャンスのおかげで当時に問題とされていたヴァラキア地方からアメリカのテキサス州への移住も終わり、ズリーンの人口は1890年の2834人から1930年の21582人まで増えました。バチャ社は世界にビジネスを展開し、1932年にチェコ国内外に6万7千人の社員を雇っており、54ヶ国でバチャ社の工場を立て、主にブラジルとインドでいくつか新しい町も建設しました。
しかし、トマーシュ・バチャは会社の社長だけではありませんでした。ズリーンの市長としても1932年に当選されました。ズリーンの人口が増えることに連れて、多くの住宅が必要になるので、バチャはズリーンにル・コルビュジエ (1887年~1965年)やヤン・コチェラ(1871年~1923年)やフランチシェク=リディエ・ガフラ(1981年~1958年)などの国内外の著名な建築家を誘い、彼らと町の未来の姿を相談し、会社の建物や住宅地の建設をお願いしました。バチャが推進した都市計画のおかげで、ズリーンは今でも珍しい機能主義建築の都市として知られ、統一感がある赤い煉瓦の建物がズリーンの象徴となっています。バチャ社の社員のために建てられたバチャハウズが20世紀のモダンでリーゾナブルナな暮らしとして評判が高く、社員が住むいくつかの徹底的に計画された住宅街が建設されました。それぞれの家にお庭もついていて、ズリーンが「緑の町」と呼ばれていることもバチャの活動に由来しています。私自身も大学に入学するまでにずっとバチャハウズに住んでいました。そのコンパクトサイズで少し狭く感じる人もいるかもしれないが、庭付きの一軒家としてかなり良い暮らしだったと思います。
またバチャは住民の幸せにとって仕事以外のものも必要だと十分把握し、ズリーンに巨大な映画館(2264席)、ホテル、デパートメントストア、学校も建設し、ズリーンをブルノとプラハに鉄道や高速道路で繋げる計画まで準備していました。バチャのビジョンのおかげでズリーンは地方の小さい町から、当時のチェコスロヴァキアの経済を支える「進歩」の都市となりました。
バチャ時代から現代に目を移すと、ズリーンの建築はまだまだ健全だと分かります。町が新しい世代の建築家を生み出し、彼らは都市の姿を時代に合わせて進化させています。その一人は世界的に名が知られているエヴァ・イジチュナー (1939年)です。イジチュナーは主にイギリスで活躍していたが、故郷であるズリーンのトマーシュ・バチャ大学の建物やズリーンのコングレスセンターなども手がけました。
では、ズリーンの文化はどうでしょうか?バチャ社の成長とともに、安定した仕事やモダンで豊かな暮らしを求める様々な人々が次々とズリーンにやってきました。その中で建築家、デザイナー、作家、映画監督等々がいました。ズリーンに経済活動だけではなく、クリエーティブな活動も集中すると、町の文化も栄えます。バチャ社が広告制作のために建設したズリーン映画スタジオが第二次世界大戦後、チェコスロヴァキアのアニメーションを代表しているスタジオの一つとなりました。巨匠のカレル・ゼマン(1910年~1989年)やヘルミーナ・ティールロヴァー(1900年~1993年)もズリーン映画スタジオで活躍していました。ズリーンと映画の繋がりが強くて、現在でも行われているズリーン国際子供映画祭「世界最も古くて、最も大きい子供映画祭!」は世界的に有名で、毎年ズリーンに多くの映画ファンが集います。また、トマーシュ・バチャ大学でアニメーション学科があり、若手アニメーターがズリーンを拠点にし、活動しています。
バチャ社、そしてその関連企業がチェコスロヴァキア全国から優秀なデザイナーも必要としていたので、プロダクトデザインという分野がズリーンで盛んです。空気入れのプラスチック玩具を手掛けたリブシェ・ニクロヴァー(1934年)や彫刻家とデザイナーのヴィンツェンツ・マコフスキー(1900年~1966年)、インダストリアルデザインで名を挙げたズデニェク・コヴァーシュ(1917年~1974年)等が取り上げられます。
リブシェ・ニクロヴァーの息子であるペトル・ニクル(1960年)も有名なズリーン出身のアーティストです。彼は画家、イラストレーター、デザイナー、パフォーマーでもあり、多面的な才能で注目を集めています。
スポーツの分野でズリーンとゆかりがある有名人と言えば、真っ先に「人間機関車」と呼ばれていた陸上選手エミル・ザートペック(1922年~2000年)が思い浮かびます。ザートペックはバチャ社に16歳に入社し、ズリーンで始めて陸上大会に参加しました。後ほど、当時世界の最も有名な陸上選手になり、1952年のヘルシンキオリンピックで三つの金メダル「5000メートル、10000メートル、マラソン」を優勝します。
また、ズリーンの有名人として忘れていけないのは旅行家の二人、イジー・ハンゼルカ(1920年~2003年)とミロスラフ・ジクムンド(1919年~2021年)も欠かせません。世界を旅し、書籍、映画などを通じてチェコ人にとって遠くて、エキゾチックな国を紹介していました。1963年に7ヶ月をかけて日本全国を旅したこともあります。
最後に、ズリーンを訪れる方に、もう一つのお勧めの場所を教えたいです。町の中心から数キロ離れたズリーン動物園です。圧倒的な人気を発揮している動物園で、モラヴィア地方の最も来訪者が多い観光スポットというタイトルを誇っています。最大の魅力は動物の自然環境の徹底的な再現です。動物たちは狭い檻に閉じこまれずに、広い自然公園のような場所で暮らしています。さらに、動物園の真ん中に19世紀末のお城が残っており、初めて訪問する人は、これはまさにモラヴィアディズニーランドだと思うでしょう。

私は2017年に日本に引越し、それからパンデミックの影響で2020年の2月に一回しかズリーンに顔を出していません。3年ぶりの帰国だったので、まだ時間それほど経ってないのに、ズリーンがかなり変わったと感じました。バチャ社の工場の建物が修復され、現在ギャラリー、図書館、カフェ等の店が工場の中に並んでいます。ズリーンの中心にある公園も大幅な見直しを受け、明るくて、楽しい公共の場になりました。今年、帰国できるといいなとぼんやり考えながら、ズリーンのさらなる変化が見ることを楽しみにしています。
皆さん、チェコを訪れる際、未だに穴場となっているズリーンにぜひ足を伸ばし、緑と煉瓦の街の開拓を楽しんでください。